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 20世紀の初め、アメリカでは、新天地を求めてたくさんの移民が押し寄せた。

 偶然にも、独立記念日に東欧からやってきたサム・クリチンスキーもその一人だった。彼は、先に移住していた兄弟と生活を始める。

 しかし、些細なことをきっかけに、兄弟に溝ができると、やがては家族もバラバラになり、夢に描いた幸せな日々が失われてしまうのだった。

 そんな辛い半生を送ってきた彼も、やがては年老い、病院生活を余儀なくされる。

 ある日、彼の孫であるマイケルが、自らの子供と一緒に見舞いに訪れる。そして、彼は二人の前でこう話す。

「すべてが消えると知っていたら、もっと記憶に刻み付けたのに…」


 この世の物事すべては、とどまることなく、移り変わるもの。それが世の常であり、世は儚いものである。たとえ親しかった家族や友人でも、遠く離れてしまうと、日ごとに親しみを薄れ、次第に疎遠になる。また、思い出の場所や時間さえも、忘れ去られてしまうものだ。

 いわゆる、世間と人間の盛者必衰を表現する作品なのだが、この映画はそれだけでは終わらない。なぜなら、マイケルの子供の名前がサムなのである。

 一般的に、伝承とは、慣習や文化、そして信仰などを呼ぶことが多い。

 しかしながら、マイケルは、禁じられていることを承知の上で、わが子に祖父と同じ名前を付ける。いわゆる、実名の継承を選んだのである。

 いつの時代の人間も、後世のために、残すもの、引き継ぐものがあるはず。さて、あなたは未来に向け、だれに、どんなバトンを手渡すのか。

 そう、作り手は問いかけているのだろう。

 
 
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01.09 (Sun) 22:15 [ 未分類 ] CM7. TB0. TOP▲
 私が東京で一番行っている場所と言えば渋谷だ。

 いろんな人がいろんな考えを持って歩いている。

 それは、まさに千差万別で、被写体としては羨望の的である。

 近頃、私はセピアに注目している。

 そうはいうものの、あくまでも携帯においてであるため、今年からは一眼カメラでセピアにあう被写体を本格的に撮ろうと思う。

 実は、先日、木村伊兵衛写真大賞に作品を見たときに感じた。

 改めて、写真は色がないほうが想像性が養われということ。

 色があることで、答えがはっきりしていて、見る人にインパクトは与えるが、持続性に欠けた作品になり、心の奥底まで沁みてこないと思うのだ。

 もっともっと、人の心を捉えてやまない写真が撮りたい。


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01.07 (Fri) 02:46 [ 未分類 ] CM0. TB0. TOP▲
 
 年末年始の寒さが嘘のように暖かくなった三箇日の中日。親父と二人、お伊勢さんに初詣に出かけた。

 これまで、私は親父と二人っきりで行動をともにしたことはなかった。たとえ誘われたとしても、自ら進んで行くことは皆無に等しかった。しかし、その考えも歳を重ねたせいなのか、すんなりと受け入れる自分になっていた。

 最寄の駅まで車を利用し、駅から近鉄電車に乗った。そして、伊勢駅について、まず外宮を目指した。

 お袋は親父のことをよく鉄砲玉と言う。その名の通り、親父は出かけたら、なかなか帰ってこないし、出かけても、どんどん先に進み、ついていくのが一苦労だ。


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 境内にたどり着いたとき、写真を撮っていると、親父を見失った。どこに行ったのかと思いながらも参拝すると、出口のところで待ってくれていた。

 ここまで、会話らしい会話はない。

 参拝を終えると、バスに乗って内宮に向かった。これが正式なお伊勢さんの参拝方法なのだ。

 正面入り口に着くと、先ほどまでの落ち着いた雰囲気ががらりと変わり、名物の一つでもある宇治橋は、参拝客で溢れていた。


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 それでも、人の波はスムーズに進むことができた。まだ早い時間のせいだろう。

 橋を渡り、ほどなくすると、大きな鳥居の前に手水場が見えてくる。手を清め、その鳥居をくぐると、道が二手に分かれる。左が本道で、右に行くと、五十鈴川のほとりに出る。我々は、右に進んだ。

 昔、この水辺にはたくさんの鯉が悠々自適に泳いでいた。これまで、見所の一つであり、ツアー客でごった返していた一角も、今は小銭が水底に沈んでいる光景だけで、魚の姿はない。
 
 再度本道に合流してまもなく、おみくじ売り場が見えてくる。我先にと祈願する人たちで、ごった返していた。

 その喧騒が過ぎると、鬱蒼した森に包み込まれた。樹齢何百年何千年にも及ぶ巨木が、そこかしこに点在し、歴史さえも含んだ樹木の神格的な匂いが漂ってくる。

 上空では、名の知らぬ小鳥が、自由気ままに会話を楽しんでいるように、仲間たちと飛び交っている。もしかすると、彼らは一番幸せな環境で生活しているのかもしれない。

 そろそろ本殿が見えてくる頃、人の波が静止した。どうやら、前方では規制しているようだ。

 人の波に飲み込まれてから、おおよそ30分弱で、本殿にたどりつくことができた。親父と二人、手を合わせて祈願した。


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 お伊勢さん参拝の見所はまだある。帰り道に小さな橋を渡る。そして、その先に蔵が見えているのだが、中を覗くと何かが動いている。それは白馬である。

 かつて、私の住む町の神社にも、同じような白馬がいた。お袋から聞いた話では、なんと伊勢神宮にまつられている天照大神の姉妹にあたるからだと言う。意外にも、わがふるさとの神社は、歴史的に大きな存在感のある代物なのだと、その時初めて知った。
 
 一人寂しく佇む白馬を見た後、左手に池が見えている。ここでやっと絢爛煌びやかな衣装に身を纏った鯉が、悠々と泳いでいる姿を見ることができる。

 その奥の茂みには、神鶏(しんけい)といわれるチャボが時計じかけのように、神妙に歩いている。この場所は、子供たちにとって、最良の場所でもあり、家族連れで賑わっていた。

 その近くにある休憩所で人休みし、お茶を頂いた。その後、我々はもっとも賑わうおかげ横丁に向かった。

 おかげ横丁に向かう内宮参道は、予想以上に混んでいた。さすが正月である。


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 親父は相変わらず、人の間を縫ってどんどんと進んでいく。やがて、一軒のお店に入って行こうとしていた。伊勢の地酒『白鷹』の立ち飲み屋だ。


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 中に入っても、混雑していた。順番を待つことを知らない親父は、急げとばかりに盃を催促する。正直、こちらは少し恥ずかしい。

 やがて、空いた杯ができたのだが、一升ではなく、その半分の盃しかなかった。親父は早く飲みたいのか、渋い顔をして、その盃を受け取り、私にもすすめた。

 なみなみに注がれた純米酒を塩で頂く。これが基本らしい。しかし、傍らにゆで卵があり、親父はそれを二つ買うと、一つを私に寄越した。

 親父は日本酒を飲みながら言った。

「父ちゃんな、昔は伊勢に来るごっとにここでよう飲んだんよ」

 私は、思わず鼻で笑っていた。

 親父は大の酒好きだ。

 先に触れたように、親父は鉄砲玉と言ったが、その先はほとんど酒場。子供の頃、親父のイメージは、常に酔っ払っている人だった。

 仕事から帰ってきて、すぐに飲みに行くような人で、夜はほとんど家にいなかった。それだけならまだしも、ある時、夜遅く帰ってきたときのことだ。皆が喧しく言うものだから、母や妹に対して手を上げるときもたまにあった。

 だから、私は必然的とも言えるが、酒で身を滅ぼすような人間だけにはなりたくないと、子供ながらにずっと思っていた。しかも、親父は競艇にパチンコ、そして花札が好きだったので、絶対に博打なんかしたくないとも思った。

 だが、不思議なことに、親父はなぜか私には、手を上げたことはなかった。それは今でも謎だ。

 そんな親父だったから、晩年身体を壊したのは言うまでもなく、今では酒もタバコも止められていて、祝いの時期にしか飲まないようにと、お袋から言われている。

 少し口元を滑らかにした後、参道の人込みに戻った。

 途中、一軒のお店で親父は立ち止まった。帽子が目についたようだ。

 親父は昔から、おしゃれだった。

 出かける際、常にオーデコロンで身体をプンプン匂わせて、サングラスや帽子を被っていた。

 その日も、帽子とサングラスをかけていたが、なにやら物色しはじめた。

 店員さんが、今人気の石川遼君が被っている細長い底の浅い地味な色のもの進めるが、親父は言う。

「もっとハイカラなんがいいわ」

 親父は、地味な色の帽子よりも、目立つようなものがいいらしい。親子やな、と私は思った。

 時より、アル=カポネが被っていそうなギャング帽子を触っては、首を傾げていた。

 親父は帽子好きだが、また香水も好きだった。

 だから、私が大人になった時、父の日のプレゼントは常に香水だったし、その後も変わらず贈り続けていた。もっとも、そのことがあって、私も香水が好きになったのだが。

 結局、何も買わずに店を出ることになり、ようやくおかげ横丁の看板が見えてきた。

 おかげ横丁に入ると、いっそう人で溢れていた。


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 ちょうど、そのエリアの真ん中にやぐらが組まれた一角がある。いわゆる、イベント場所だ。太鼓の音がしていたので、我々は近づいていった。
傍らにつくと、親父は真剣な表情で太鼓を叩く人を見つめる。


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 親父は、太鼓が大好きな人である。

 お盆に開かれる地元の祭りでは、いつも太鼓踊りが披露される。

 町の4つの地域から、4人一組になって、深夜から朝にかけて、行われる大きな行事なのだが、親父は子供の頃、素晴らしい太鼓の名手だった。

 私が中学生になり、青年団に入った時は、年配者からお前の親父は上手かった、とさんざんいろんな人から言われた。練習の際にも、常に親父が先頭になって若衆を指導していたし、一生懸命に祭りの運営に携わっていた。

 私は子供ながらに、それが一番のプレッシャーだったのだ。

たぶん、性格的なことも要因だったのかもしれないが、身体が小さかったし、人前で堂々と、太鼓を叩いて踊ることが恥ずかしくてできなかったのだ。子供のころは、引っ込み思案の性格だったのだ。

 私は、その祭りを外から見ることは好きだったが、自らが参加することが嫌で嫌で仕方なかった。

 ただ、今思うと、祭好きな点においては、血を受け継いでいるように思う。

 しばらく、催し物を見た後、お腹がすいてきたので、食事をすることにした。

 しかし、赤福ぜんざいの看板が目に入ったので、私はそれを食べることにした。


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 一方、親父はそんなん食べたない、とか言いだし、向かいにあったお店で、蕎麦食べてくるわ、そう言って離れていった。

 ぜんざいを食べ終えた私は、また親父と合流し、界隈を散策した。そしてまた参道も歩いた。

 親父は、やたらと脇道にそれていく。なぜかと思っていたのだが、その辺りにあるお店の共通点は、生がきやさざえを焼いていたり、おでんや串物が並んでいたり、ようするに酒のつまみになるお店なのだ。

 やはり、混雑しているので、席はあまりなかった。ただ、辺りに漂う匂いを嗅ぐばかりだった。

 私は親父の気持ちを察知し、席を待とうかともしたが、いくら正月とはいえ、あまり親父に酒を飲んでほしくなかった。ベロベロに酔った親父の姿はもう見たくない。何よりも、親父にはもっと長生きしてほしいのだ。


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 実のところ、中学2年生の春まで、私は親父を軽蔑していた。飲み、打つ、買うの典型的な荒くれ者で、家庭を顧みない人とみなしていた。

 それが、春休みの時、アルバイトで親父の仕事の手伝いに行くこととなった。ちょうど、小遣いがほしくなる年ごろだ。

 親父は、建設業だったから、私はリヤカーに砂利をいっぱい詰め込んで、それを運ぶ仕事を任された。

 でも、その重量が半端なく重くて、身体の小さい私は、汗をダラダラにかいて苦労していた。

 そんな私を見ながら、親父は怒ることもなく、貸せと言わんばかり取り上げて、こう持つんやと言って、悠々と運んでいった。

 親父の身長は、私とほとんど変わらない。しかし、身体つきがぜんぜん違い、長年重労働で鍛えた筋肉が盛り上がり、格闘家のようなのだ。

 その時の親父がリヤカーを運ぶ後ろ姿を見て、私は感じたのだ。

‘俺はこれで飯食わせてもらってきたんだ’

 その後から、私の親父の見る眼が変わった。

 これまで、借金を含めて散々家族に迷惑をかけてきたが、親父は仕事だけは、ぜったい手を抜かず、懸命に働いてきたのだとわかったのだ。

 その後も、やはり親父の悪い癖は度々見られたが、私はそんな親父のことを、許すというのか、それとも認めるとでもいうのか、ある程度のことは多めに見るべきだと思った。

 その親父の働きぶりの甲斐あって、私立の大学も行かせてもらったし、下宿させてもらった。だから、言葉に現せないほどの感謝をしている。

 だから、少しでも恩返しがしたい。限られた時間の中で、少しでも笑う親父の姿が見たい。

 そのためには、できるだけ長生きしてほしいのだ。

 なかなか親孝行できない身分で申し分けないけど、浴びる程飲める日が来るまで、もう少し待ってほしい。

 そんな気持ちを抱いていたから、親父には悪いがその場を素通りし、ゆっくりと家路に向かうことしたのだ。

 帰り路も、親父は無口だった。本来、親父はけっこうしゃべる人だと思う。しかし、妹をはじめ、子供とはほとんど話さない人だ。

 ようするに、不器用なのだ。

 私はそれでいいと思う。いや、そのほうがいいと思う。

 親というのは、子供に対して、細かいことをぐちゃぐちゃ言うことよりも、じっと黙って支えていることが、本当の優しさだと思うから…。



 
01.07 (Fri) 01:46 [ 未分類 ] CM0. TB0. TOP▲
  
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